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フットボーラーになることを反対されていたことを明かしたサディオ・マネ

Sadio Mane


いまや、世界から注目されるプレイヤーとなったサディオ・マネ。
ご存知のとおり、セネガル出身であり、少年時代は裕福とは言えない環境で育ってきたことが知られています。
セネガルのエースとして、いわば英雄のようになっているわけですが、少年時代は、フットボーラーになるなど、とんでもないことだと取り合ってもらえなかったそうです。

周囲の誰も応援してくれない。
そんな環境にあっても、サディオ・マネは、フットボールのことしか頭になかったと回想しています。

これは、サディオ・マネが、SuperSportへ向けて語ったことで、Sky Sportsも記事として取り上げています。

ここでは、その一部ですが、私なりにまとめてみたいと思います。

(Sadio Mane)

セネガルにいた時期は、厳しいものだったよ。
特に、ぼくがまだ若い頃はね。

ぼくは、ある村で生まれ育った。
そこに住む彼等は、フットボールを好まなかったんだ。

母も父も叔父さんも、ぼくを学校へ行かせようとしてね。
それは、いつものことで、とにかく勉強さ。

そんな時、ぼくはフットボーラーになることに集中をしていた。

彼等は言ったよ。
「フットボーラーになるだって!?無理に決まっているだろう!」

「ダカール(セネガルの首都)から、こんなに遠い村から、どうやって行くっていうんだ!家族だって誰もいないんだよ!」とね。

だけどぼくは、フットボーラーになれることが分かっていたんだ。
どうすればいいかは、知らなかったけどね。

ぼくがやる(為す)こと!
それだけさ。
ぼくが知っていたことといえば、それだけだよ。

いつだって、トレーニング!トレーニング!トレーニング!トレーニング!だ。

ぼくが学校を去るまで、彼等は助けてはくれなかったよ。
15歳か16歳の頃だったね。

ぼくは言ったよ。
もう十分だ!学校へは行かない!とね。

ぼくは、学校へ行くのを辞めなければいけなかった。
フットボーラーになりたかったからね。
そのことに集中しなくては!

彼等は、「狂ったのか!何てことだ!」と言ったよ。

ぼくは、「分からないよ、でもダカールへ行く!」と、言ったんだ。
知っている人なんて誰もいない。
でも、ストリートでプレイは出来るし、誰かがぼくを見つけてくれることを願ったよ。

彼等は、冗談だと受けとめたと思うよ。
だけどぼくは、ある日荷物をまとめて、学校へ行くことをやめてしまったんだ。

誰にも言わなかったよ。
無二の親友を除いてはね。

一週間ほど、家でも学校でも、ぼくの姿はなくなった。
彼等は、あらゆるところに声をかけまくって、最後には、ぼくの友達のところへ訊きに行ったんだ。
そこで、ぼくがダカールへ行ったことを知らされた。

彼等はぼくを見つけ出し、ダカールから家へと連れ帰ったよ。

フットボールへのパッションは、生まれた時から持っていた。
3歳か4歳の時期には、ぼくの頭の中には、フットボールのことしかなかったさ。

10歳になっても、何も変わらなかった。
フットボールだけだよ。
ただただ、フットボール!フットボール!フットボール!だ。

不思議なのは、それまでぼくの家族がフットボールをしてこなかったということさ。

よく、ハングリー精神という言葉が使われますが、サディオ・マネの言葉を聞くと、軽々しく言えないような気持ちになります。

そんなメンタリティーを持ったプレイヤーだからこそ、ユルゲン・クロップ監督も愛し、いつもハグをしているのかもしれません。

フットボール以外のことは考えもしない。
それは、生まれ落ちたときからだ・・・。

サディオ・マネの人生は、まさにフットボーラーとしての申し子であることを映し出しているかのようです。

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