
深い悲しみに沈むリバプール。
マイティマウスと呼ばれ、アンフィールドを疾駆した背番号7、ケビン・キーガンが死去。
75歳の人生でした。
私が海外のフットボールに触れ、最初に大好きになったプレイヤーがケビン・キーガンであり、憧れの人であると同時に、まさにアイドルでした。
だから、この私自身も深い悲しみの中にあり、ひとつの時代が終わったという感慨をもって、この報せを受け止めました。
ビル・シャンクリーに見出されたキーガン
キーガンとリバプールの歩みは、20歳だった1971年5月にスカンソープから加入したことで始まりました。
キーガンをリバプールへ連れて来たのは、偉大なるカリスマ、ビル・シャンクリーであり、リバプールが一段高い位置を占めるチームとなる大きな契機となったものです。
各界から哀悼の言葉が飛び交う
ケビン・キーガンの死は、全世界を駆け巡り、各会から哀悼の言葉が拡がっています。
1970年代のリバプールを知る人々にとっては、ケビン・キーガンはリバプールにとどまらずイングランドの英雄でした。
バロンドールを受賞したわずか4人のイングランド人選手の一人
当時のイングランドにあって時代の先を行っていたキーガンは、当時世界最高峰だと言われていたブンデスリーガのハンブルガーSVに移籍。
ここで2度にわたりバロンドールを授賞しています。
イングランド人でバロンドールを獲得したのは、今に至るまで4人しかいないのです。
アンフィールドを駆け巡る無尽蔵のスタミナ
キーガンは、決して体躯に恵まれた人ではありませんでした。
しかし、無尽蔵のスタミナをもってアンフィールドのピッチを駆け抜けた。
あの姿に私はやられました。
少年だった私は、キーガンをこう呼んでいました。
『小さな巨人』
低迷するイングランドにあって傑出した存在
キーガンが最も充実していた時代、それはイングランド代表が不振を極めた時期と一致してしまいます。
ワールドカップのヨーロッパ予選で、2大会連続イタリアと同組になったイングランドは予選落ち。
キーガンがワールドカップに出場するときには、もう既にベストな時期が過ぎていたのです。
この悲劇性にも、少年だった私は心揺さぶられました。
マイティ・マウスは永遠に
小柄な選手、リバプールの7番、類まれな運動量、当時のイングランドにあって稀有な大陸型フットボールの素養をも持った先駆者。
マイティ・マウス、ケビン・キーガンの名は、末永くアンフィールドに刻まれることでしょう。
Rest in peace, Kevin Keegan
1951-2026
